昭和49年06月25日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心は見易いものじゃが、みな氏子から難しゅうする。三年五年の信心では、まだ迷い易い、十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心を祀れ。日は年月の始めじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。見易う信心をするがよいぞ。」

 その日その日のおかげを、受けて行けば立ち行こうがと。その日その日のおかげを頂いておりますお互いに。ですからその日その日のおかげを、真からお礼を申し上げて行くと言う生き方、ですから信心は見易いです。それを幾らお願いしたっちゃ、おかげ頂き切らんとか、おかげが現れんとか、思う様にならんとかと思うから、信心が難しいのです。その日その日の、おかげを受けて行けばとこう仰っとる。その日その日のおかげを受けておるじゃないか。
 例えばなら、皆さんの場合でいうなら、今日も朝参りも出来る程しの全ての条件と言う物が足ろうておられるからこそ、お参りが出来ているんです。その日その日のそのおかげを、心の底からお礼を申し上げて行くと言う信心。今日もいうなら、朝参りが出来ましたと言う程しの人だったら、もう言う事ない程しのおかげ。それを、思いが成就せんとか、願いが叶わんとか、いうなら、まだおかげが頂き足らん様な思いがあるから、信心は難しい。願うた事が成就せんと言うて難しい事になって来る。
 いうならば信心が苦になる、信心が苦痛になる、信心が重荷になる。だから難しいのである。その日その日のおかげを受けていけば立ち行こうがと。今日も立ち行っておる、おかげを頂いておるというてです。それに甘んじておれと言う事でもまたないです。所謂三年五年の信心では迷い易い、十年の信心が続いたら我ながら喜んで我心が奉れれる。そういう信心を目指して行くのです。信心の眼目と言う物が、我と我心が拝めれる様な心の状態を願い求めて、そしてその日その日が立って行けば楽じゃ。
 その日その日が立ち行っておればもうそれでおかげだと。それをいうならばおかげ信心に終始するとです。自分の思う様にならん事は、もうおかげでない様に思う。この事の願いが一つ成就する事の為に、例えばお参りをする。所が成就しない。いや成就したに致しましても、その事の成就の事だけのお参りであったら必ず疲れが来る。おかげが成就したらもうそのまま有難いおかげとは分かっとるけれども、お参りすら出来んごとなって来る。そういう信心では、そういう信心が続いたんでは。
 それは二十年、三十年経っても我心は拝める様にはなりませんよ。おかげだけを拝むという信心。自分の心が拝めれるような信心を目指さなければいけない。そこで自分自身の今の心と言う物が拝めるかというと拝めない。我情で我欲でいっぱい汚れておる自分に気付かせてもらうから、その我情が我欲が段々取れて行って行くおかげを自分に感ずるから、段々有難うなって来る。
 私は本当にその日その日のおかげを受けて行けると言う事をね、立ち行っておると言う事だけに所謂万空の喜びをね、捧げる意味においての信心。そして一段と我心が拝めれる様なおかげを頂く事の為に、所謂信心に精進するのだ。同時にもう一つ私は合楽では皆さんね。これ程しの間違いない祈りの中に日々がおかげになっておるのであるから、いうなら言う事ないという私は実感がね、伴のうて来なさらにゃいけないと思う。
 今朝丁度二時半に起こして頂いて、シャワーを頂こうと思って出て参りましたら、食堂の方が明々と電気が付いている。高橋さんが昨日長崎の支店の方へお店回りをなさっておられる。一日がかりで、今朝二時半にこちらへ着かれたわけです。そして御祈念をさしてもろうて、御初穂の整理をさしてもらって終わった所へ、電話がジャンジャンかかって来る。電話を受けられると、熊本の松村さんからであった。
 あそこは石油スタンドをしておられます。それがちょっとカーブになっているそうですからね、スピードで走って来た車が曲がり切らずに家の中に飛び込んだ。それが本人は大した怪我もない。自分方のは自動車が飛び込んで来たのですから、それだけ潰れた訳ですけれども、その運転手さんがどうでも一つ警察沙汰にせずに、弁償だけはちゃんとさせてもらうから警察に言わんどいてくれと頼まれる。それはちょっと待って下さい。私の都合じゃいかんけんと言うてから。
 まあお伺い二時半だったら、普通だったら誰もおるはずがないですね。そしてその電話を受けられて、私にその事を伺いに来うと思った所が、私がすでに出て来ておった。いやっとかなんとか言って感心しとられました。神様は間違いないなあと言う事なんです。別に私がお知らせを受けて出て来た訳ではないけれども、その様なね祈りの中に、何時もお互いがそんなに間違いのない祈りの中に皆さん祈られて今日があるのです。
 これは間違いないです。金光大神御取次の働きと言う物が、合楽という教会に伝わりその合楽の教会長である私の信心というか、私の祈りというその祈りの圏内にあっておること。それこそ間髪を入れないそういう言うならば、一分一厘間違いのないそう言う働きの中に起きておる事であるから、そこは我情我欲を向うがそう言うて頼んでおられるなら、向こうの頼み通りに警察沙汰にしないで円満に解決のおかげを頂く様に。
 例えばそういう信心がそこに現れてくると言う事。それを警察沙汰にして、例えば取れるしこ取ろうと言う様なです、考え方をもし松村さんがされたとするならば、こんなにも間違いのない働きを頂きながら、それに違反する事になるでしょうが。だから高橋さんと話した事でしたけど、この辺の所がね日頃信心の御教えがちゃんと身に付いとったらね、お伺いをせんでもです。
 例えばそこはこう言う事になりましたが、向こうが頼まれますから、話し合いで片付けましょうというふうにおかげ頂きました。というお礼だけでよいわけです。そこに答えがすぐ出てくる。普通例えば合楽のね、成行きを大事にするとか、自然に溶け込むという生き方になれば、自然を生かす事が出来ると言う様な御教えが本当に身に付いとったら、本当いうなら、お伺いせんでも良い訳です。
 けれどもまだそこまで信心が至っておりませんから、お伺いしかも夜の夜中に、例えば電話かけても誰も出るはずがないのだけれども、そこに丁度高橋さんが帰っておられた。その返事をいかにも私がする様に出てきた様に、二時半という普通で起きていない時間に、私がすでに出て来ておると言う事。そういういうならば間違いのない働きの中にお互いがおかげを頂いておる。それはもう本当にね一分一厘間違いないですよ。
 昨日は関さんの所の謝恩祭でしたが、四時半の迎えに来るというとられたから、準備して待っておりましたけど、中々見えません。そしたらようやく見えられましたから、車に出迎えに見えとりましたから、表に出ましたら表にバスが着いた。中からぞろぞろぞろぞろ降りてくる。誰かと思うたら、ある教会の先生方が温泉に行かれた。ここの前を通るから寄らせてもらおうというので見えられた。私が何分かもし関さんが時間通りに迎えに見えとられたら、私は合う事も出来なかった。
 合わねばならない又はそれを受けなければならない先生方ばっかりであった。そしてお茶ども差し上げて、それからやらせて頂いて丁度良いというおかげ。お祭りが始まりました。皆さんもご承知のように、あそこは古賀ん茶屋という電車の停留所のすぐそばですから、十字路の踏切がありますから、もうひっきりなしに電車が通っとるわけですね。ですから、通るときにはもうけたたましいベルがジャンジャジャンジャンなるでしょう。もう、すぐそばですからね。
 御祈念の座に着かせて頂きましたら、ジャンジャンなってます。だからそれを鳴り止んでから御祈念を始めようというのなら何です、私は鳴りよったけれども拍手を打った。ベルが止まった。いうならばそういつも私が言うように、私の御祈念中に時計がジンジン鳴ったら、それはもう間違っとる時だと自分が。時計を見てから私は御祈念の座に出る事も着く事もない。けれどもこれは皆さんがご承知のように一分一厘間違いのない働きの中にお祭りならお祭りが奉仕される。
 お祭りが終わって霊神様の方へ移ろうとしたら、またジャンジャン鳴り出した。それでもやっぱり座に着かせて頂いて拍手を打った。途端に止まった。私が拍手で打ったから止まったと言うのじゃないですよ。けれども一分一厘間違いのない働きの中に、謝恩祭が仕えられておるということなのですよ。ですから有難いじゃないかと私は。私が書いて差し上げておった色紙を、丁度御神前の上に立派な額に入れて額が上がっとりました。それには『徳積みて栄える家や 喜久の花』という句です。
 徳積みて栄える家や喜久の花、自分が建てた家じゃいかん、自分が儲けだしたお金じゃいかん、そげなたとえば儲けだしてもそげな金は使えば減る。例えば分不相応の家を建てたとするとそれが重荷になって、あそこは普請さっしゃったらご主人が神かコロッと死になさったという例がいくらもあるのはそれなんです。支えきらんです。ですから言うなら力なら力を請けて、千斤なら千斤診てる、百斤なら百斤持てる力を頂いて、家が栄えていく。二百斤持たれるようになったから、二百斤の分栄える。
 五百斤持てる様になったら五百斤栄えていく。というものでなからねばお金でも同じ事。でなからなければそれこそ使うて減らぬ金百両と言う事にならん。『徳積みて 栄える家や 喜久の花』そこでなら徳を積むと言う事はどう言う事かというとです。私は今日の様な所、見易う信心はさせて貰わねばいけないと言う事です。見易うと言う事は、今日ある今日ただ今立ち行っておると言う事にです。報謝の心を捧げる事です。今日おかげを受けておると言う事に、心の底から有難いという思いを表わして行く事です。
 そういう言うならばです。まあ例えばその日その日のおかげを受けて行けば立ち行こうがと、見易う信心をするがよいぞと言う所はです。見易う説いて御座いますけど、実際御理解を頂いてみると解からない。それが自分のものになると言う事はもっと難しい。今日私が皆さんに申しますように、今日例えば朝参りでも出来られるおかげ、好条件の中におかげを受けておられる、立ち入っておられると言う事。それでそれだけでもお礼を申し上げねばおられないという日々であれば良いのだと言う事です。
 そしていうならば我と我心が拝めれる様に成る事の為の信心。有難い自分が拝めれる様に成る事が有難い。又自分の周辺に一分一厘間違いのない働きが現れて来ておると言う事がまた有難い。そういう有難い有難いの信心がです。十年も続いたら我ながら我心が祈れる程しになるのだ。そこにはいうならば徳を受けると言う事、その徳を受けてから家も立派になりゃ良いのであり、お金も溜まりゃ良いのでありそうでしょう皆さん。
 その我と我心が拝めるごとなる前に、やあやあ言うておかげを頂こうと言う様なおかげではです、それきりのもの。いうならば使えば減ってしまうお金のようなものである。私は合楽で皆さんがね、おかげを受けておられると言う事が、有難いというよりは、解かってもらいたいと思うんです。そりゃ今申しますように、松村さんのそれではないですけど、そういう間違いのない祈りの中に、合楽に御神縁を頂く一人一人の上にそういう働きというものは、いつもあっておるんだと言う事です。
 それが今日ただ今があるのであるから、その事にもまあ間違いのない働きの中に生かされて生きておるんだと喜びを持っての信心。その喜びが愈々我心の上に改まっていく、磨いていくという中から、自分の心がかすかにでも拝めれるようになってくる。皆さんも本当に私は、最近合楽で言われる、合楽のおかげとその合楽のおかげを皆さんの心の中にも皆さんの家庭の上にもです、合楽を表わして頂きたいと言う事なのです。合楽では皆さんご承知の通りです。ああこれが合楽の世界であろうかと。
 合楽ということは、神様も喜んで下さり、自分も喜ぶ、いうなら神様と氏子がいつも拝み合うていると言う様な姿がです。昨日二十名余り見えられた先生方、ここを見て回られてからあるお年寄りの先生が、もう五十年位布教に出られていわば教会の先生方が、こげな御広前で御取次がしたいと言う様な意味の事を言われた。ですから皆先生方というのは、立派な御広前を造りたい、建てたいと言った様な願いを持っておられるようですね。いうならば皆さんがおかげを頂きたい。
 おかげを頂きたいと思っておるのと同じことなのです。所が合楽の場合は、私の場合は違うです。御広前を建てたいとも、立派にしたいとも思わないです。神様が建てて下さるのであり、神様が立派にして下さるのであり、神様がこれが本当の合楽ぞ。これが本当の極楽ぞという印を、どこにもここにも造って下さるのです。自分が言わば埋めよう埋めようやって、例えば家を建ると致しましても、それは重荷になる。私のここ十年余りの間に知った教会が立派に建築になりました。
 一軒は建てられてすぐ亡くなられました。一軒はその半ばに教会長が亡くなられました。自分が建てよんなさるから、自分の力量以上のものが出来よるから、結局支えきらんで亡くなるのですよ。合楽の場合、これがよしどれだけ大きくならせて頂いてもです。私が建てたとじゃないから、私に重荷がない。いうならば、ただ私は、自分が力が頂きたいとおもう、おかげをいよいよ積んで行きたいと思う。だから、千斤のものが持てるようになったら、千斤のものが出来てくるのは当たり前なんです。
 ですからここんところの切り替えがね、本当になされなければです。是からの合楽を自分の家に表わすという様な事は、出来ませんです。それが段々皆さんはまがりなりにも出来て行きよんなさいますけれども、もっともっとすっきりと頂きたい。それを表わしていく一つの過程というかその過程をやはり大事にしなければいけません。その過程の時にはです。いうならば信心の薄いものやないものから見たらです。もうあれどんが金光教に道化しちもうてから、と言うて笑われる時期が必ずなからなきゃだめです。
 人から笑われちゃならんけん参らんじゃなんてんでけんです。笑われもする、悪口を言われる時もあるかもしれません。けれどもそこの所をです。神様一途へ向けるその心がです。私は我ながら、我心が奉れれるような心がそこから頂けてくる。それが成就して行くというおかげを頂かにゃいけませんよ。おかげというものはやあやあいうて願うて頂くようなおかげでは、願うただけのこと頂いただけの事です。私どもがそれこそ使うて減らぬ金百両というおかげ。
 それにはまずは、我ながら喜んで、我心が奉れれるようなおかげを頂くと言う事。いわゆる、徳を積んで行くと言う事がです。それから栄えてからでも遅くはない。そういう栄えなら限りがない。愈々喜久の花である。自分の心の中に喜び久しいと喜久と書く訳ですけれども、心の中にいうなら合楽の信心といわれる、心の中に絶えず菊の花のような喜びを心の中に頂いて、愈々それを本当のものにしていくというおかげ。本当にねそれが一つ一つ成就していく。
 もう自然におかげ頂いて、ああせにゃいけんぞ、こうせにゃいけんぞじゃいかんと。私は今日はとりわけそのことをフッと思うてから、合楽の場合は素晴らしかなぁと思うんですけど、朝こちらへ出らせて頂きます。幹三郎と直子が奉仕し付いて来ます。四時になりますと光昭がこの頃は襖を開けて先導してくれます。御祈念が終わると、若先生が五時の御祈念をちゃんと仕えてくれます。私は今日は改めてそれを思いました。
 あんたこうせにゃんばい、あんたはこれを受け持たにゃん、と誰もどうせろこうせろと言わんなりに、それが出来て行きよると言う事なのです。ならついこの頃までは、光昭が自分でも言うておりましたように、どうも自分の信心は、狂っていると言う様な意味のことを言っておりましたが、そこのお前の信心は狂っとる。しっかりやり直せ、やらんかと言わんでも、それがちゃんと出来てきよると言う事。もうこげな有難いことはないですよ。もう思い以上願い以上にちゃんとおかげを頂いてる。
 もうこのうことを思うだけでも、合楽が極楽と言う事が解かるでしょうが。今ここに四人の子供達がおります。四人の子供達がそれぞれに、私の手にもなり足にもなって御用さして頂く。お前は手になれ足になれ。誰にも言った事はないです。もっともっとそれが蜜のある。もっともっと素晴らしいもの。本当に我ながら我心が拝まねばおられないですねそういう有難いと思うその心が自分自身の心を拝む事になるのです。
 ここはこうするが本当ばってん、と言った様な生き方を十年続けてたって、それはほんな事じゃないのですから、おかげに成る筈が有りません。こうする事が本当だと気付いたならば思うたならば、もうそれこそ勇気を出して、それこそ人が笑うてもそしっても、そこをやり抜いて行くという信心からしか、今日私が我心が奉れるという程しの信心が生まれてこない。同時にまた今日御理解を頂いて成程と思うただけです。
 今日一日が立ち行けばもうそれだけで、有難いんだと思うても、有難いと思うものが生まれてこなかったらだめです。ですから根本はやっぱり我心からの信心を求めての徳積みの信心からしか生まれてこんのですから。皆さんの心の中に合楽を開いて頂きたい。皆さんの家庭に合楽を打ち建てて貰いたい。それをまた社会に広めて行って頂きたい。これは私の願いではない。いうならば神様の願いだと思うです。 
   どうぞ。